歌声を聴かせてほしい

初めて嵐を好ましい人たちだと認識したのは、バラエティの彼らを観た時だ。

前にも書いたことなので詳細は省くが、とにかく5人の空気が面白くて微笑ましくて和んだし、今思えば何よりも、他のなににも感じない「なにか」を感じてそれが珍しかった。

そんな風に書くと最初から彼らの特別な“なにか”を感じ取れていたように映るけれど、そんなことはまったくない。ただ、その頃の自分を取り巻く状況も相まってずっと心の底に灰色の泥のようなものが降り積もっていた、その灰色の何層かをぐわっと持ち上げられて急に明るいパステルカラーが混じったような、そんな感じ。

すぐさま録画を設定して、それは毎週の癒しとなった。どれも可愛らしく面白く和んだが、それはわたしにとって「好ましい」のであって、「熱狂的に好き!」とは違うポジションだった。「好ましい」人たちはけっこういる。でも、「熱狂的に好き!」は、そうそう現れてはくれない。

そんなわたしが嵐を「熱狂的に好き!」になり、更にここまでずぼずぼとその沼に填まる決定的な一打は、彼らの楽曲であり、歌声であり、そのパフォーマンスだった。

嵐の5人の歌声はそれぞれの色がはっきりしていて、聴き慣れないわたしでもすぐに区別がついた。ラップもハーモニーもひとりひとりのソロも個性に彩られ魅力的なことに正直驚いた。わたしがこれまで耳にしたジャニーズの方々の歌って、“ジャニーズ”としての個性が強くて個々の声が聴き分けられないことがほとんどだったから。(これはわたしの勉強不足なのだろう。でも、勉強不足でも嵐の個々の声は聴き分けられたのだ。)ライブDVDでそのパフォーマンスの全貌を観て、更に驚く。そこが決定的だったのかもしれない。「あの場に行って体感したい」思わずそう願ったからだ。

それから10年以上、彼らの歌を聴いてきて思うこと。

嵐の歌声は進化している。出なかった声が出るように、不安定だった旋律が安定するように。そしてそれに呼応する形で曲が難解に、魅力が増している。特にすごいなあと思うのは、その成長がグループの中のひとりふたり、ではないこと。大野智がひっぱってきたメロディラインを、今は誰にまかせても(技術的には)(ほぼ)遜色なく聴こえるようになってきているということ。

この辺境のブログで誰に気を使っても仕方ないので我儘を自覚しつつ正直に言うと、ここでお休みしてしまうことが本当に惜しい。もったいない。心から残念だと思う。更なる進化が望めたし、その成果をもっと聴いていたかった。

わたしは5人の歌声が好きだ。

じゅんの“ザ・アイドル”な甘い甘い声、葉さんの泣けてくるほど優しい声、ニノの曲や合わせるべき声によって変幻自在の器用な声も、翔さんの表現力豊かなラップとふんわり響く心地よい歌声、そして智の人を惹きつけずにはいられない魔性の歌声。

―いや本当に、智の歌声は特別だと思う。彼が歌うべき場所を歌うと、曲が締まるもの。(もちろん嵐の楽曲にはタイアップが付くことが多く、そのドラマなり映画なりCMなりによって5人の誰がメインになるかが毎回違う。それは嵐に多彩で自由自在なイメージの奥行と広がりを与えるし、それによりクオリティを下げることなく楽曲作りをできることは嵐の強みのひとつではある。それには大いに賛成するところではあるが)5人で歌うからこその強み、カラフルな声による豊かなイメージの広がり、そこをまとめるのはやっぱり智の歌声なのですよね。(そして智もまた、5人での方が魅力がより増す。気がする。)

 

話してる声も好きなんですよ。もちろん、大好き。でも、歌声が。本当に本当に魅力的で大好きで叫びたいくらい。

「いつかまた5人で活動することを頭のどこかに置いて」と言った翔さんの言葉を心から信じているわたしだから、もちろんそれを楽しみにしているわけですが、老婆心ながら憚りながら素人が口出すようなことでないのは百も承知で、どうか、進化しているその歌声たちを披露する場が無くても、進化させ続けていてください。どうか。どうか。。(こんな当たり前のことをプロフェッショナル集団にごめんなさい。失礼しました!)