フィクション

映画『検察側の罪人』コメンタリーについて触れています。まったくのネタバレ回避を望まれる方はお読みにならないでください。

映画の中の世界にどっぷり浸かって現実との境界線を見失うほどの共感性も想像力もないと自分のことを信じてきたが、ここにきて少々それを怪しんでいる。

事の発端は『検察側の罪人』。世紀の大スター木村拓哉と、我らが二宮和也の共演は飛び上がるほど嬉しく、映画のみならず宣伝で見られるであろう二人揃った姿を、一報を聞いた時からそれはそれは長いこと楽しみに待っていた。そして実際あらゆる番組を大喜びで受け止め何度も楽しみ、部屋には関連雑誌の砦を築いた。・・・本編を観るまでは。

映画は2回観た。ファンだからといって、一作品に何度も足を運ぶということをあまりしないわたしにとっては2回というのは決して少なくない。重いテーマでありながら再鑑賞をしたいと思うほどに、魅力のある映画だった。

ただ、よくわからないし大変畏れ多く失礼極まりないことではあるが、本編を見て暫く後、木村さんがニノとの距離を縮めていく様子に何とも言えない底知れぬ不安のようなものを感じるようになった。これはいったいどうしたことか。

「嵐がいれば何もいらない」とまで言うニノが、嵐以外にあそこまでごろにゃんするのが珍しくて戸惑い、焼きもちを焼いたのか自分、とも思う。ファンと、何より4人が共通して呼ぶ大切な呼び名を(木村さんなりの思いやりに溢れた理由があるとはいえ)違うものに切り替えて行こうとご自身のファンに呼びかけて広まり、更には嵐ファンニノファンまでもが新しい呼び名で呼び始めているのをついったーで見た時には卒倒しかけた。(なんとなくそれは浸透しないままだが)(ごめんなさい、でもそりゃそうだよ・・・)

しかしそれはすべて、ニノの世界がまたぐんと広がるということでもあって、素晴らしく喜ばしいことでもあるのだった。わたし自身もそう思っていたし、だからこそ心底しょうもないくだらない焼きもちなんて感情が我ながら申し訳なく、このニノの素晴らしい出逢いとプロフェッショナルな仕事にちょっとでも水を差したくなかった。それで今までこの気持ちを心の奥の奥に仕舞い、黙っていた。

そうしたら。

先日『検察側の罪人』DVD & Blu-ray がめでたく発売となり、コメンタリーやメイキングが付いた本作はとても評判がいいらしい。しばらくぶりに心の底を覗いてみたらそんなに疼かなかったので、これ幸いと関連記事やレビューを読み漁った。すると驚くべき監督の意図がネタ晴らしされていた。そしてこの得体のしれない気持ちの正体が、遅まきながらわかったのだった。

これ、本編を観てそのように理解できた方は洞察力がすごい。わたしはその恐ろしさを掴みきれず言語化できず、白昼夢のようだと思っていた。ああそうか、あの咆哮にはどうもがいても連れて行かれてしまう自分の無力さがあったんだ。

ニノにこれ以上近づかないで、木村さん。ニノをその線の向こうに連れて行かないで。

現実と幻想の境界がわからなくなるなんて、わたしの方こそ「一線を越える」だ。